裁判と真実

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少しだけ考えてみました。ドラマとか見るので。

photo-credit: syui

はじめに



今回は、社会のシステムの一つである裁判について個人的な考えを書いていきたいと思います。

というのも、裁判の結果をあたかも真実だと誤解している人が多いような気がしたので、書いてみることにしました。

ちなみに、私の意見というのは、単なる初心者の考えですので、あまり当てになるものではありません...。

では、行きましょう。

裁判所の役割



まず、裁判というのは、真実を見つけるためのものでもありませんし、その結果が真実であるとも限りません。

では、そもそもなぜ裁判というシステムが存在するのか、その理由から説明していきましょう。

世の中には、様々な争いが存在します。

例えば、「AがBの持ち物を盗んだ」といったものを想像してみてください。

ここで、悪者は、明らかにAですので、BのAへの報復を許しても良さそうに思います。

しかし、それでは秩序を維持できません。

なぜなら、報復が行き過ぎていたり、または、怒りで冷静さを失った人は、犯人を間違えていたりするかもしれないからです。

この場面では、「AがBのチリ紙を1枚盗んだ。しかし、その行為は、Cに命令されて実行したものだった。にも関わらず、Bはそのことを知らず、Aへの報復として、Aを刺殺する」という例を想像してみてください。

この場合、Bの報復行為は、やり過ぎな気がします。また、Aを操っていたのは、実はCだったので、悪いのはCであるとも言えます。

極端な例えですが、ひとつの事件にも、多くの背景、多くの関係者が存在している可能性は十分にあります。

よって、最初に説明した「AがBの持ち物を盗んだ」という事実だけでは、簡単に判断してはならないし、被害者の勝手な報復行為を許してもならないということは理解できるのではないかと思います。

そこで、話は最初に戻ります。

具体的には、世の中には様々な争いが存在するということです。

しかし、先程も言ったように、このような争いを放置するのは良くないし、また、被害者の勝手な報復行為を許していては、秩序を維持できないような気もします。

よって、世の中に存在する争いごとを終結させるシステムが必要になります。

簡単に言うと、これが裁判所の役割だと私は考えています。

最後の手段



では、どのように争いごとを終結させるのが良いのでしょうか。

実は、世の中の争いごとの大半は、当事者が納得できれば、それで解決するものだったりします。

したがって、争いごとを解決するには、基本的に、当事者が納得できる形を探るのが得策といえるでしょう。

また、裁判所は、他にどうしようもなくなった争いごとを終局的、最終的に解決(確定)するものでもあります。

このことから、裁判というのは、あくまで最後の手段という認識が一般的だと私は思います。

第三者



しかし、それでも、他にどうしようもなくなった争いごとというのは、世の中に存在します。

すると、裁判でしか紛争を解決できないため、裁判になることがあるのだと思います。

ここで、裁判を考えていく前提としては、「何が真実であるか、分からない」という視点が非常に重要になってきます。

なぜかというと、何が真実かがはっきりしていれば、そもそも裁判をする必要はないということです(正確には違いますが、わかり易さを重視するため、このような表現を使用しています)。

よって、裁判というのは、「何が真実であるか、分からない」という状態から開始されるものだと理解するのが良いのではないかと個人的には考えます。

では、なぜ裁判所、ないしは裁判官は、「何が真実であるか、分からない」のでしょうか。

その理由は、裁判所の裁判官が人間だからでしょう。さらにいえば、第三者だからです。

当事者同士ならば、何が真実であるか、分かっている状況はもしかしたら存在するかもしれません。

しかし、当事者ではない第三者の裁判官は、何が真実であるかが分からない状態が普通なのです。

また、神様でもない限り、真実を見極めるのは、非常に難しいことなのでしょう。

この点、何が真実か分かっている当事者、関係者が裁判をやればいいという考え方をされる方がいるかもしれません。

たしかに、当事者、関係者なら何が真実であるか、知っている確率も高いので、真実を見極めるためには、当事者が裁判をやったほうが適切であるようにも思えます。

しかし、それで公平な結論が出せるかというと、そうではありません。

なぜなら、何が真実であるかを知っているということは、自分の不利益になることは進んでは行わないということでもあるからです。

よって、現実の裁判では、もし担当する裁判官が、事件の当事者、関係者だった場合、当該裁判から外される仕組み(除斥、忌避など)が存在します。

話が長くなったので、一旦、話をまとめましょう。

裁判官は人間だし、第三者なので、何が真実であるか、分からないという前提が存在します。

しかし、もし裁判官が第三者でなければ、裁判の公平性が害される恐れがあり、それも良くないということです。

立証責任



では、「何が真実であるか、分からない」という状態の中、どのように争いを解決していけば良いのでしょうか。

この点、現在の裁判では、立証責任を原告に負担させることで、裁判が進められることになります。

ちなみに、立証責任(証明責任、挙証責任)というのは、簡単には、真実を証明することを言います。

そして、真実を証明するというのは、何が真実であるか、他人にも分かってもらえるようにすることを言います。

ここで、原告は、この立証責任を負担しなければなりません。

立証責任の負担というのは、裁判にある3つの状態のうち、その2つの状態で不利になることを言います。

裁判では、3つの状態が存在します。

具体的には、①真である、②偽である、③分からない、という状態です。

そして、原告は、②、③の状態を負担しなければなりません。

分かりにくいですね...。

立証責任の負担は、表にしてみると、分かりやすいです。

分からない


表では、裁判で原告の主張が認められるところに◎をつけています。

◎が付いているところは一つだけですね...。

ここで、②偽である、③分からない、という2つの状態で裁判は原告の負けになってしまいます。

つまり、何が「真実であるか分からない」という状態にしてしまえば、被告の勝ちになるわけです。

このことから、裁判の結果が必ずしも真実や正義であるとは言えないということは理解できたのではないかと思います。

では、なぜ裁判では、立証責任を原告に負担させるのでしょうか。

これは、裁判所が「疑わしきは、罰せず」という考え方を採用しているからです。

では、なぜ裁判所は「疑わしきは、罰せず」という考え方を採用しているのでしょうか。

これは、簡単に言うと、憲法の価値観が具体化されたものだったりするのだと思います。ただし、この辺りの説明は、長くなりそうなので、この省略することにします。

今回言いたかったのは、裁判はあくまで争いを解決するための機関であって、必ずしも真実や正義というものを実行する機関ではないということです。

もちろん、裁判には、真実や正義というものを求める法律(規則)が幾つも存在します。

しかし、裁判所は必ず真実や正義を実現してくれるだろうと考えている人が多いような気がしましたので、今回は、自分の思ったことを適当に書いてみました。