本当の意味での理解


理解というのはどういう感覚で使われることが多いのでしょうか。

個人的には、ソフトな理解とハードな理解があって、前回使ったのは、ハードな理解の意味でした。でも、ソフトな意味での理解でこの言葉が使われることも良くあります。

つまり、「人は本当の意味で理解できることなどありえない」というのはハードな理解の意味でしょう。

反対に、「人と人はお互いが理解し合える」というのはソフトな意味でこの言葉を使っていることが多いと思います。

「人は理解できない」、「人は理解できる」、「できない、できる」というやり取りは一見して矛盾しているように思えますが、しかし、どちらも正しいと言えますし、どちらも間違っているとも言えます。(理解し合える、し合えない)

この場面の本質をちょっとだけ補足しておくと、両者ともハードな意味での理解として捉えているかもしれませんね。しかし、お互いが「完全に理解し合えれはずがないのになぜ理解できると言うのか」と苛立っており、一方「同じ存在でない限り完全一致はありえないからそういうことを言ってるんじゃない。だとすると理解し合えるはず」と苛立っていると思われます。

ハードな意味の理解と言っても捉え方は人によって若干違ってくるかもしれません。

ここで、どのような違いが見られるのかというと主に完全かそうでないかです。

分かりやすく言うと、一方は完全完璧を追求します。しかし、もう一方はそこまでは要求しません。

では、完全完璧なものがこの世にあるのかというと、ありません。したがって、それを追求することは意味が無いともいえます。

いや、立場によっては意味はあります。なぜなら完璧なものを作ろうとしない限り、それに近づけないからだと考えるからです。なので、立場的には意味はあるものなのかもしれません。

とりあえず話をまとめると、人々の理解に先天的性質のほうが役に立つといったのは、本当の意味での理解は難しいからです。ここではハードな意味での理解です。

ただ、完全なものは要求していません。ちょっとだけハードルを下げています。したがって、他者理解は可能と私は考えます。

今回の話はこんなところで。おわり。