なんか悪い人間なんていないってことをごちゃごちゃ書いているっぽい記事



アニメが嫌いになった人の話を自分はどう考えるのか


最近、大好きなアニメを批判されて、アニメを見なくなったという人の話というかイラストが話題になっていた。

話題になるということは、批判にさらされるということでもあり、私はその人が少し可哀想に思った。

感情的にはそれだけだが、その感情を上手く表現するために、今回はそれを書いていこうかなと思っている。

今の世の中、ある一つのことをすると、すごい批判にさらされることを私は知っている。

具体的には、「他人のせいにすること」だ。

例えば、「他人のせいで私はアニメが見られなくなった」というと、当然ながらすごい批判や誹謗中傷が寄せられ、そう言った当人は精神的ダメージを負ってしまう、そういう世の中だし、特に日本のネットではその傾向が強いと思う。

しかし、私は、「別に他人のせいだって言っても、それが本当なら別に仕方ないし、別に良いのでは?」とそう思っている。

だから、「他人のせいにするな!」とかそういった厳しいことは特に思わない。

その理由の一つは、そういう厳しいことを言うだけでは本人は救われない事が多いからだ。

そんなことは誰でも言えることだ。

誰もが簡単に、「自己責任だ」、「他人のせいにするな」、「甘ったれるな」とそう思うだろうし、場合によっては、それを言葉にするだろう。

基本的に、私はこんなことを言っても意味が無いと思っている。

例えば、「僕だけがいない街」で親に虐待されている子が登場するが、彼女が誰にも救われず、そのまま育ったらどんな風になっただろうかと想像してみる。

誰にも救われなかった場合、つらい目にあったその人は、きっとひどく残酷で冷たい人間になっただろう。

逆に、辛い状況から主人公たちに救われたその少女は、未来では優しい普通の人間になっている。若干ネタバレだが。

ここで、私達ができることが非常に限られたものであることが分かると思う。

私達は彼らを手助けすることしか出来ないのだ。

もしこの虐待を受けた子供に、「ゆるむな、甘ったれるな、自己責任だ、他人のせいにするな」と言ったところで、彼女は変わらなかっただろうし、救われなかっただろう。

反対に、この作品の主人公達は、この少女、具体的には無愛想な嫌われ者に優しく声をかけ、誕生日を祝い、隠れ家に匿うということを実行した。

そのかいあって、未来では、この少女は優しい普通の人間になっていた。もしこの少女が救われなかったら、どうなっていただろうか。

人は環境に逆らえない。虐待を受けた子供は、やがて親になり子供を虐待するようになる。厳しいことばかり言われ認められなかった人間は、ただ厳しいことを言うだけで他人を認めないダメな大人になるだろう。こんな人間ばかりの世の中にあなたは住みたいと思うだろうか。

以上を踏まえ、私は、今回のケースでは、「本当にそのせいでアニメが見られなくなったのなら、それはそれでしょうがないだろう」とそう思った。

実は世の中、「他人のせい」であることも多い。何故かと言うと、「人ひとりの力はとても小さい」からだ。子供は親を選べないし、人間は環境を選べない。だからこそ、環境というものが非常に重要になってくる。これをすべて「自己責任」に帰結させるなら、世の中は良くならないだろうと思う。逆に言うと、原因を解明し、環境を変える努力をする上で、「他人のせい」にすることも私は仕方ないし、時には必要なことだろうと、そう考えているのだ。

だからこそ、私は、「他人のせいでアニメ見られなくなった」というこの主張に対して、特に怒りも拒絶も否定も感じなかった。それはそれでしょうがないし、そういう人がいても良いと思うのだ。この人はおかしいとも何とも思わない。

今回、そう思う人が多かったようだ。

何故かと言うと、やはり、最初にも述べたが人間の本質のせいだろう。

人間は自分とは関わりのない事柄は、「自己責任だ、他人のせいにするな、許せん」という感情を発生させるのに対して、自分の事がらに関しては、割と他人責任にすることも多い。

他人責任というのは、例えば、「あいつはもうダメだ」とかいうのも他人責任にしている範囲に含まれる。自分でなんとかできない事柄、コントロール出来ない事柄に関して、それを否定したり、ダメだと言ったりするのは、やはり、「自分の責任ではない、どうしようもない」と言ってるのと同じだからだ。

しかし、これは特別に悪いことでもない、と私は思う。これは当たり前のことであり、当然のことだ。

また、「作品を批判した人、原因を作った人」に言及したい。

一言で言えば、「別に作品を批判しても良いのでは?」ということだ。

つまり、この件に関して、悪い人間はいないのだ。

長くなりそうなので、また今度。