制作現場や開発環境を評価に含めること



まず予め言っておきたいのは、私は例えば作品の評価において、制作現場や開発環境を考慮した評価はしてこなかったし、そんなの調べるのも面倒なのでやって来なかった人間である。

また、私がもし批評を見聞きする側に立った場合でもそういう話はあまり面白くないのではないかと思うので、特にそれらの外的要因について、評価に含めたいと考えたこともあまりない。

ただ、これについて、私なりの考えというか、視点というか、感じ方というか、そういったものとは別問題なので、まずはそこから語っていきたい。

さて、私の視点というか考え方はとても単純で「作品の評価について、その開発環境を評価に含めたければ含めればいい」というものである。

つまり、作品の評価とは言ってはいるが、なんでもありなのである。なぜなら、それは個人の問題だと考えるからだ。したがって、別段、それが含まれていることに対して、何も感じないし、それが的外れだとも、間違っているとも、価値が無いとも思わない。

ではなぜ一見、作品内容とは無関係の開発環境をその評価に含めることが間違いではないのだろうか。

それは、考えて見れば簡単なことだ。

一言で言うと、「作品はなんのためにあるか」だ。

そう、この問いが即座に答えになる。

まあ、いきなりで訳がわからない人もいるかもしれないが、これが私の思考経路みたいなものなので、本件とは特に無関係ではあるが、私が普段どのように考えるのか、参考になればと思ったので書いてみた。

さて、作品とはなんのためにあるのだろうか。例えば、アニメとはなんのためにあるのか。

これは、立場によって様々だろう。制作サイドから見ると「生活のためです」という人もいれば、単純に「好きだから」という人もいるだろう。場合によっては、「なんでアニメを作ってるのか自分でもよく分からない」という人もいるかもしれない。反対にユーザー側から見れば「将来のため」という人もいれば、単純に「面白いから」という人もいるし、「暇つぶし」という人もいるだろう。

また、それがどのように将来に繋がるかについても未知数だ。例えば、「昔アニメを見ていて、いつの間にか開発環境を改善したいと思うようなり、現在の仕事をやっている」という人もいるかもしれない。

ここで気付いた人もいるかもしれないが、これらはSHIROBAKOに出てくるシーンの数々だったりする。いやいや、SHIROBAKOを見ろという話では全く無い。それに私がこのアニメから考えだした結論でもない。

単に分かりやすかったのでSHIROBAKOのシーンを参考にしただけだったりする。何事にも根拠が必要だ。特に、人に自分の言いたいことを伝えたかったり、または納得させたかったりする場合は。

話を戻そう。私が言いたいのはつまり「何のためにアニメを見るのか?」、「作品とはなんのためにあるのか?」というような問いは人それぞれ全然答えが違って当たり前ということだ。

次に、作品の評価について。例えば、開発環境や制作環境は作品の評価に全く関係ないという反論もあり得るので、これについて個人的な考えを述べる。

まず、評価というのは一体なんだろう。

これは、人に分かりやすくその作品について伝えることだと考えている人もいるだろう。それはそれで間違いではない。

ただ、私は少し違ったものの見方をする。

私は、その作品の評価はあくまで自分のためにするもの、もしくはどちらかと言うと他人に説明したり、伝えたりするより自分にとって一体どのような価値があったのかを優先して考えること、伝えることを作品の評価だと捉えている。

いや、これも正確ではなく、あくまでケースバイケースなのだと思う。しかし、どちらかと言うと自分にとっての価値を評価に繋げる行為を作品の評価と呼んでも良いと考えているのだ。

少し話が難しくなってきた気がするので、もう少し簡単に説明する。

つまり、「何のためにアニメを見るのか?」を各々が作品の評価につなげても良いと考えているという話だ。

そして、「何のためにアニメを見るのか?」は各々、目的も違えば、答えも違ってくる。

ある人はただ単に楽しむためだけに見ているのかもしれないし、ある人は技術を吸収したいと思い見ているのかもしれない。ある人は開発環境の裏側を探り、参考にしたいと考えているのかもしれない。これは少し公平ではないのだけど、例えば、いつしか開発環境を改善したいと思うようになり、それが将来につながっていくのかもしれない。SHIROBAKOにはスタジオの社長さんがそんな感じの人だった記憶がある。

世の中、色々な人がいて、色々な役割があって、そして、私達は自分たちとは違う役割にある人達のことを何も知らない。何もわからない。いや、知ろうともしないし、分かろうともしないの間違いか。

しかし、多くの場合、自分達が理解しようとしなからと言って、そういった役割が不要になるということはあまりない。また不要だと思って捨てたはいいが、あとあと、それが思いもよらない影響を及ぼすことも少なくはない。

人間には細かな因果関係や広範囲に及ぶ影響をすべて予測し、コントロールすることなど不可能なのだ。

では、どうすればいいのか。

ここでの私の答えは、一つに多様性を認めるということだと思っている。

私自身、作品の評価に現場環境や開発環境を持ち出すことについて、それが面白くなかったり、時にバカバカしく感じることはあっても、そういったやり方自体を批判することはあまりない。本来やり方は自由でいいはず。

書くべきことはまだ山程あるが、何となく飽きてきたので、連続で続けようかなと思っていたこのテーマはこれで終わりにする。

さて、最後に、あなたは何のために作品を見るのか?何のために作品を評価するのか?について再び問うとしよう。

その結論、その答えは、果たして他の考え、自分のとは異なる考えに比べ価値が高いものなのだろうか?

それは自分の将来につながっていて、人生をより良くしてくれるものなのだろうか?

そんなの関係ない?

では、その目的や評価は自分を変えてくれるものだろうか、成長させてくれるものだろうか?

自分はそんなことのためにやってるんじゃない?

では、作品内容とは全く関係のない外的要素を持ち出すことと持ち出さないことは、果たして価値がそんなに変わってくるものなのだろうか?

フィクション作品の評価を現実に繋げようと繋げまいと、それはどちらかがダメで、どちらかが正しいことなのだろうか?

自分でも何のためにやってるのかよく分からない?

もしそうなら彼らも同じなのかもしれない。

性質上、やらざるを得ないし、だからこそ、そうやっているだけなのかもしれない。

追記


私の答えは、「分からない」というのが一つだ。

作品を何のために見るのか?

多分、分からないから見るのだろう。それがどのように自分に影響を与え、自分がどのように変わっていくのかなんて分からない。だから見るのだと言うことができる。

何のために評価するのか?という問いについても同じ答え方ができる。わからないから評価するのだ。それを評価して、どのように自分が変わるのか、または変わらないのか、分からないから評価するのだということができる。

例えば、評価についても、評価している最中、それがどのように受け止められ、またはどのような反応があるのかというのはわからない。これは他人のみならず、やはり自分に対しても評価している最中、決まりきったものがあるわけでもなければ、自分がなにをどのように評価するのかはわからない。途中で気が変わるかもしれないし、何かを思い出すかもしれない、はたまた結論が変わることもあれば、印象が変わることもあるだろうし、異なる視点に気づきもするだろう。

もう一つの答えとしては「在るがままに」というのがある。

まあ、なんで見るのか、なんのために見るのか、なんのために評価するのかというのは、やりたいからやってるだけということです。

人は在るがままにしか生きられません。

したがって、理由を聞くこと自体、無意味であるともいえます。

これは、例えば、へんてこな視点(自分と違う視点)から作品を評価しようとする人達も同じで、その点では何も変わらないと思っています。

んー、それがその人達の在るがままなのでしょうがないんじゃないかってことです。

そして、これはお互い様だし、自分もやりたいようにやってるだけ、評価してるだけだしという感じです。

何のために生きてるのって言うのと同じような問いであり、答えですね。

生きてるから生きているんだよ!っていうことで。おわり。

追記2


この記事で言いたかったのは、多分、間口の部分を狭めるような批判はあまりよろしくないんじゃないかという感じのものだと思います。

例えば、答えがあったとして、そのゴールに辿り着くには無数の道、解答があります。

で、この道しか通ってはいけませんというのは、面白くないですよね。可能性が広がりません。

遠回りしてもいいし、最短距離を通ってもいい。そして、その先についても各々違ったゴールがあるのだと思います。

今回の件では、道が制限されていて、それはゴール(目標や目的)を限定させることにもつながってくると思います。

つまり、表で言うと4通りあるうちの2つにバツがつくわけですね。

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こういう場合、私は警告的な記事を書きやすいんじゃないかなと分析しています。